マイストーリー
BtoBマーケティングとDXを31年以上かけて自ら推進してきました。コンサルベンダーにはない、自身による経験を実践知としてお客様へ提供いたします。
■学生時代
商品企画を目指して中央大学理工学部管理工学科でORを学び、卒業研究は【ネットワークにおける最適化経路問題】に取組ました。これは現在の乗換案内の様な各種サービスの元になる線形計画の手法です。そのロジックは最適化手法として生産管理などの論理的管理手法として用いられている技術です。
将来に商品企画をする為には論理的思考法以外に情報システムの知識が必要と考えて4年間プログラマーのアルバイトをしていました。
用事も無いのに色んな店に行ってバブル時代のモノを見て、あれこれと工夫しながら活用するシーンを妄想するのが好きでした。
今でも私は、「人々の生活を豊かにする為にモノが必要であり、それを創造し提供する事で未来社会へ貢献して行きたい」と思っています。
■セイコー時代
1989年4月の就職では、マーケティング企業である服部セイコー(現セイコーホールディングス)へ入社。IT業界なら何処でも紹介すると平野教授に言って頂いたにもかかわらずモノづくりに拘って入社しましまたが、しかし配属は希望の商品企画ではなく情シス部門。学生時代の経験を生かして順調にシステムエンジニアからシステムアナリストに昇進して業務改革を基幹業務システム企画開発で推進。億単位コストのプロジェクトを経験する中で「企業は何故ITを活用するのか」という事を常に考えていました。
その答えが「ブランディング」と見えてきたことから情シス部門だけでは限界を感じ、自分で作ったシステムを活用している事業部門へ異動希望して念願の商品企画ポジションへと辿り着きました。営業も同時に行うその職で扱う商品の中には電気シェーバーもありました。当時業界シェア3位だったセイコーは大きな市場を抱えていましたが、ある時に充電器が発火するリコールが起きてしまいます。私が造った基幹業務システムではパートナー企業工場での品質管理を対象外にしていた為、個人的にその責任を痛感していました。お客様へお詫びに行く毎日を送りながら、夢だった商品企画の前提は品質なのだと大きく考え方が変わった瞬間でした。
セイコーでの経験は、お客様起点でのブランドと品質をITと商品の観点で学んだ13年間でした。
■横河電機時代
ブランドと品質の重要性に気付いた事がきっかけとなり、製造業を支援していた横河電機へ転職したのが2001年9月。ここでも配属は情シス部門でした。
CRM,SFA,DWH,WEB,ISMSなど顧客フロント系を中心に担当する事が多かったのですが、実はこれらは上手く行かなかった全社PJTが私に回ってきていて非常に厳しい役割でした。しかしそれは経営視点を醸成するためにはとても良い経験でした。特にwebリニューアルでは、事業部門の声がとても強い社内の中で、全社統制こそが自社のCapabilityとして最大効果を生むソリューションであり、経営思想に繋がるものであるという信念にもなり、結果的にソリューション企業への変革を牽引することができました。
その経験によって顧客起点でのマーケティングは勿論のこと、経営視点でのアプローチを融合した手法を作り上げ、その手段として注力したデータ分析は非常に効果的で上述のwebリニューアルと併せて私の代表的な成果となっています。
これらの結果、多くの企業様から相談が相次ぐようになり、お客様貢献から社会貢献へと私の働く目的が変わっていきました。
横河電機での経験は、お客様起点と経営視点での技術と戦略をマーケティングとソリューションの観点で学んだ13年間でした。
■リコー時代
外部講演が多く成った横河電機時代に、人材紹介会社からデータサイエンティストとして強く勧められた縁があってリコーへ転職したのは2015年4月49歳の時。全産業を対象市場とするリコーは、実はセイコーや横河電機時代から経営品質を向上させるために研究している時に注目していた企業でした。特に経営品質賞を1999年に受賞し、更に環境経営にも長けていたリコーは私からするとベンチマークすべき会社だったのです。しかし複写機市場の停滞は酷く、そこから脱せない同社の実情はかなり問題が多くて深いものでした。当時2兆円の売上で10万人の社員を抱える巨大企業です。
中期経営計画を策定して実行する中で、個別対策では変革はできないと考えて管理職を降ろさせていただき一人で革命的行動に出ました。私のポジションを作ってくれたにも関わらずそんな行動を許可してくれた上司にはとても感謝しています。
直接社長へ経営課題を提起した上で対策目標をコミットして自分で行動するのです。これを繰り返す事で、「定期的に話を持って来てくれ」と社長からも依頼されるようになっていきました。
10万人もの社員を抱える企業が変革しようとするのですから、まずはそのような目標になる人物像を自ら実践して見せられなければ話になりません。そのような人物像を過去現在未来それぞれの事実データとマネージャーとの徹底議論で導き出し、実践していきました。
三つのテーマの中の一つであるこの人財戦略としての活動は特に大変でしたが、しかし組織構造や立場など制約に囚われず、自分の信じる道を行くという事と、やはり【ひと】が重要な事に気付くことができ、マーケティングの4PをPeopleを加えて5Pで表現すべきだと理解するようになりました。
リコーでの経験は、日本企業の特徴を経営観点で学び人の大切さを学んだ5年半でした。
■55歳の誕生日
2020年8月10日で55歳です。最初に就職した会社での配属が希望職種では無かった為、当時それを自分の糧にしようと「定年までのキャリアプラン」を描きました。そこには定年する前にその時点で所属している会社を辞めて【リセット】する、としていたのです。
描いた当時はそれほど深くは考えていませんでしたが、実は年々経験を積むごとにもの凄く深い意味が染み出て来ていました。
- 会社の都合で決められた定年に左右されない自分自身を持つ
- 組織にぶら下がることなく、目標とされるような人物に成る
- 【リセット】までに世間に求められる技術を習得しておく
- その技術でより広く世間に貢献する
そのプランは、コロナによって働き方が強制的に変わった状況にはチャンスになります。
会社ロケーションに依存する通勤の制約がなくなり、リモートで仕事ができることが証明されました。
それだけではありません。事業継続に苦しんで経費削減する傾向のなかであっても積極的に立ち向かおうとする人や企業が現れていて、そのような前向きにチャレンジするビジネスにこそ支援をさせていただきたい。
これからは【所属】ではなく、【創造】して【参加】する仕事のスタイルになることで一人ひとりの個性を生かすことが前提になってくると考えます。その意味で、私のキャリアプランは大きなチャンスになるのです。
今の日本経済界はバブル崩壊から苦戦が続いています。それは失われた30年とまで言われ、まだまだ脱する光明は見えてきません。
このままでは子供や孫の世代、または後輩や大勢の若い世代が戦う場を残す事が出来なくなってしまいます。そうなると日本の良さが失われてしまいます。
一方世界では、日本の技術やオモテナシが求められていることも事実です。
言い換えると、日本の停滞は世界の損失なのです。
今こそ、日本の良さを世界中の人々に体験していただくためにも日本の良さを復活させ、社内だけではなく多くの人々と共に未来社会を築いていきたい。だから【相談される人になる】為に技術と経験を積んで来ました。
これが私のミッションだと信じています。
もっと日本を知るために多くの人や企業との対話で議論をしていきたいのです。
もう一つの私の夢はバイクで日本一周することです。行った先々で声を掛けていただいた企業や人々に貢献して、それによって未来社会構築に参加したい。
そんな生活を送るのが私の最高の目標です。
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